揺らぎは、とても美しい。
その素材のもつ、圧倒的なのだけれどすごくあいまいな質感に出会ったり、気づいたとき、グッと胸を掴まれる気持ちになる。
手間を惜しまずとはいうけれど、そのことと現代的な”効率”との矛盾。
何よりも時間というものに対する感覚のちがい。
たま茶の入り口のドアとお店の畳席の机に使っている欅の板。
その表面は、浮造り※のようにみえるけれども、経年変化でしかみられない独特の艶感と、木目のくぼみがあります。元々この板は、滋賀の方の古いお寺で床板として使われていたもので、このようには、長い年月使い込まれ(風雨にさらされたり、上を歩いたり、拭いたり)た結果なのです。
※木目の部分を浮き立つようにした仕上げ方法。
単純に板(イタ)といっても、この木が加工された時代は、機械などなかったので職人さんが縦引き鋸で挽いたもので、事実、裏側には挽き後が残っています(店鋪ドアの表側↓)。2尺弱(60cm)巾のこの硬い木を平面にするのはとんでもない技術を要します。
これだけの厚み(一番厚いところで2寸(6cm)はある)はありますが、十分に乾燥をしなければ反ったり、曲がったりしてしまうわけで、その乾燥時間も半年~年単位だったろうし、板になるまでもいったいどれだけ時間がかかったのだろうと想像します。
ただの板といえばそれまでですが、素材や加工している職人さん達のこと(ドアにしたのは私ですが・・・)など、今に至るまでことを考えると、途方も無く感じることがあるし、そこから時空を超えた思いが垣間見えてくる。作り込まれたものもいいけれど、こういう素材感というものの方が自分は好きなのかもしれない。